「頬かむりの中に日本一の顔」と称された関西歌舞伎界の第一人者、初代中村鴈治郎は、大坂新町の「扇屋」という古い格式のある遊郭のひとり娘"妙"(たえ)の子として万延元年(1860)出生した。この「扇屋」は、芝居の『廓文章』に登場する"扇屋夕霧"ゆかりの「扇屋」である。妙はその当時の名優、実川額十郎や初代実川延若等に伴われて出入りしていた若手役者の三代目中村翫雀と恋におちて身篭り、玉 太郎、後の初代鴈治郎を産み落とした。つまりこの中村翫雀という名は、初代鴈治郎の父のものであり、成駒屋にとり大変由緒深い名跡となるわけである。




「頬かむりの中に日本一の顔」と称された上方歌舞伎の名優。大坂新町の遊郭「扇屋」のひとり娘妙と三代目中村翫雀との間に生れるが、父翫雀は役者をあきらめきれず母子を残し上京する。その後扇屋は没落し背負いの呉服商などを経て、初代實川延若の門弟となり實川雁二郎を名乗る。若い頃は一里場芝居等で修業をし、めきめきと頭角を顕す。「型」にとらわれず、演じるごとに工夫を凝らすことで自らの芸風を確立する。明治11年に中村鴈治郎に改名する。「廓文章」「河庄」など和事狂言を得意とし当たり役十二を「玩辞楼十二曲」と制定する。昭和10年に歿するが号外が発される程であった。




初代中村鴈治郎の父。山城国伏見で淀藩の与力飯田直次郎の子として生まれるが、十一歳で嵐璃(あらしりかく)の門弟となり、嵐蔵(あらしかくぞう)を名乗り、大坂の宮地芝居(寺社で行われる小芝居)で修業を積む。 文久三年(1863)四代目中村芝翫(四代目歌右衛門養子)の弟分となり、大西の芝居で三代目翫雀を襲名。 以後、初代実川延若と一座して花形となり、延若、中村宗十郎とともに"道頓堀の三大将"と謳われた。この当時、「扇屋」の妙との恋が芽ばえ、子(初代鴈治郎)をもうけるがまもなく不縁となり、上京して四代目歌右衛門の養子となる。  小柄のようであったがサビのあるせりふまわしで、芸風にも品があり、立役、和事を本領とする一方、女方にもすぐれ、『どんどろ大師』のお弓等の年増女の役には定評があった。




 初代鴈治郎の三男として大阪で生まれる。明治43年11月大阪中座で初代中村扇雀を名乗る。以降、角座の子供芝居の座頭となって"麒麟児"(きりんじ)とよばれ活躍。そして後の二代目実川延若、十二代目片岡仁左衛門等とともに青年劇一座を組み、京都京極・歌舞伎座、いわゆる"道場の芝居"で修業をする。その後、父の一座に戻るが昭和10年、父鴈治郎は歿する。 昭和16年10月大阪角座で四代目翫雀を襲名。折りしも第二次大戦が開戦、不安な世情のなかで、娯楽に餓える観客のために、まず脚本を読み直して「型」を再検討することからはじめ、演出に新たな工夫を加える等、この頃より晩年にみられた写 実的な芸風が形成されだしてゆく。翫雀を名乗ったのはおよそ5年余りで、昭和22年正月には大阪歌舞伎座で行われた亡父の追善興行で二代目鴈治郎を襲名する。  昭和42年重要無形文化財(人間国宝)認定。昭和47年には芸術院会員となる。また、昭和55年には文化功労者としての認定を受ける。


 昭和6年二代目鴈治郎の長男として京都で生れる。昭和16年11月大阪角座で二代目中村扇雀を襲名。青年期には現・富十郎等とともに、いわゆる「武智歌舞伎」で修業を積む。昭和28年8月新橋演舞場で父、鴈治郎とコンビを組んだ『曽根崎心中』の"お初"は空前の大當たりをとり、以降全国的な「扇雀ブーム」を巻き起こすこととなる。舞台では大歌舞伎のほかにも「東宝歌舞伎」「コマ歌舞伎」と出演、そして映画にまでもその活躍の場はひろげられていった。 昭和40年後半からは歌舞伎の舞台が中心となり、昭和56年には自身のライフワークともいえる「近松座」を結成。 上方歌舞伎の正統なる継承者として、現代における近松作品の上演に積極的に取り組む。平成2年11月東京歌舞伎座にて三代目鴈治郎を襲名。平成6年重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。平成6年日本芸術院会員認定。今年「近松座」20周年を迎えた。平成17年には念願の坂田藤十郎を襲名予定である。

 

 
 昭和35年12月生まれ。父は三代目中村鴈治郎、母は元女優で国土交通 大臣の扇千景。昭和42年11月中村浩太郎を名乗り東京歌舞伎座にて「紅梅曽我」の箱王丸で初舞台。平成7年1月大阪中座「本朝廿四孝」の八重垣姫、「曽根崎心中」の徳兵衛で三代目中村扇雀を襲名。

 

 

Copyright 2001 ARROW PROMOTION co.,ltd. All rights reserved.  お便りはコチラ>>> info-k@kanjaku.com
画像の 無断転載・ 複写は ご遠慮下さい。